ツチ王のキゲリ・ルワブギリが、フツ族、ツチ族、トゥワ族という3つの部族を統一してルワンダ国を設立する。その当時はフツ族が85%を占め、ツチ族は13%、トワ族が2%だった。

ヨーロッパ列強によって開催されたベルリン国際会議で、ドイツがルワンダも含めたアフリカ同地域を統治するという決議が採択された。

ルワブギリ王死去。後継者争い勃発する。ドイツに保護を求める。

ドイツ保護領となる。



ベルギーが占領する。

ベルギーの国際連盟委任統治領になるが、ツチ王族に行政を肩代わりさせた。

ベルギーがフツ族、ツチ族、トゥワ族それぞれの民族認識カードの導入を推し進め携行を義務付ける。

フツ族マニフェストの発布。当時ルワンダを統治していたツチ族の支配を拒否し、パラメフツ(フツ族解放党)が結成される。ベルギー政府、カトリック教会の支持を受けたツチ支配層と衝突が起きる。

ルワンダ王崩御。フツ族がツチ王族に対抗して立ち上がる。この部族間抗争で何千人ものツチ族が殺害される。それ以上の数のルワンダ人が近隣の国外に脱出する。ベルギーが方針を転換してフツ族支持に回る。

立法議会の選挙で、カイバンダが指導するフツ解放運動党が勝利。同時に行なわれた住民投票では、王制廃止と共和国樹立が承認される。

ルワンダがベルギーから独立を宣言する。パラメフツのリーダーであるフツ族のジョージ・カイバンダ率いる愛国党が優勢を占め、フツ族国家の誕生。カイバンダが大統領に就任。

59年の紛争で難民となったツチ族で結成された軍団が、近隣諸国よりルワンダの攻撃を開始するが戦いに敗れ、20,000人のツチ族がフツ族に殺害される。

フツ族政府がツチ族を仕事場や学校や大学から追放しはじめる。ジュヴェナル・ハビャリマナが台頭し、議会とフツ解放運動党を解散。一党独裁政治が始まる。公務員には人種差別政策が取られ、ツチ族には全体で9%の職場しか与えられない結果となる。

近隣諸国に在住するルワンダの避難民は祖国に戻る事を拒否される。ウガンダでルワンダ愛国戦線(RPF)が結成される。→1989年まで
ハビャリマナ大統領は、開発国民革命運動(MRND)を組織して新しい党を結成。

ルワンダ愛国戦線(RPF)がウガンダ国内で結成。

コーヒー豆の国際価格が暴落し、ルワンダの農民が厳しい苦境に立たされる。その為起こった暴動が他民族虐殺につながってゆく。

海外から少数民族であるツチ族の援助や保護の要求が相次ぎ、ハビャリマナ大統領は圧力に負けて、他民族でなるデモクラシー政策に同意する。

RPFがルワンダに侵攻し、ルワンダ内戦勃発。

ルワンダ軍が結成され、フツ族のみでなる過激民兵組織(ミリシア)の軍事訓練を開始する。民兵組織の名前は、互いに手を取り合って立ち上がる事を意味する、インテラハムウェと名づけられる。        
ツチ族の愛国戦線がウガンダからルワンダ北部に侵攻する。その報復でフツ族は、ルワンダ全地域で何千人ものツチ族一般市民を虐殺する。
フツ族政府が海外から武器を購入しはじめる。

ツチ族が虐殺されはじめ、人権擁護グループはルワンダ・ラジオが憎しみのメッセージを広めたとして非難する。

フツ族活動家のリーダーであるレオン・マグセラ博士がフツ族に対し、ツチ族を川向うのエチオピアに送り返す様要請する。

愛国戦線がルワンダ国境を攻撃、フランス軍がハビャリマナ政権を援護するために派遣を要請される。戦闘が長引き、和平交渉が始まる。

タンザニアのアルーシャで憲章が締結され、ルワンダにおける他民族統合の民主選挙と、愛国戦線とルワンダ軍の合併が承認される。
国連は2,500の国連軍を平和監視の目的でルワンダに派兵する。
UNAMIR(国連ルワンダ支援部隊)はカナダ人大佐ロメオ・デライレによって指揮され、その中には450名のベルギー人エリート・コマンド部隊も含まれていた。

新政府の樹立が遅れる一方で、インテラハムウェ(過激民兵組織ミリシア)の軍事訓練が強化されてゆく。
過激派のラジオ局であるラジオ・ミレ・コリンズが、ツチ族を非難する放送を流し始める。



緊張が高まり人権保護団体が世界各国に、暴力事件が勃発する可能性に関して警告を発する。ベルギー大使はブラッセルに於いて、ラジオ・ミレ・コリンズの反部族キャンペーンの危険性を訴える。
UNIAMIRのデライレ大佐が国連本部に、ルワンダ政府内の過激派フツ族がツチ族に対して虐殺を企てていると報告する。しかし更なる調査を要求する彼の提案はニューヨーク国連にて却下される。

アルーシャの和平交渉から帰国する途上のアイゼンスタット・ハビャリマナ大統領とブルンジの大統領の乗った航空機がキガリ上空で撃墜され、両大統領とも死亡。

反対派の政治家、民主的なフツ族、そしてツチ族の人々が組織的に殺されてゆく。ベルギー人の平和運動家10人がフツ政府軍によって殺害される。ヘイト・ラジオはベルギー軍とRPFが大統領暗殺を指揮したと非難しはじめる。武装したフツ族民兵がツチ族の土地に集結し、ツチ族を次々と殺し始める。RPFはルワンダ軍に先制攻撃をかける。

更に大規模な虐殺がはじめる。国連内の平和維持活動が安全保障会によって行動を阻止される。ベルギー政府は国連の安全保障委員会に国連軍の撤退を求めロビー活動を始める。

フランス、イタリア政府がルワンダ駐在の自国民を避難させるため、軍隊を送る。ルワンダ内の西側大使館のほとんどは放棄される。

大多数の国連軍が撤退する。2,500人の国連軍がわすか503人にまで縮小される。

調査によって差はあるが、25万人以上のルワンダ人が虐殺されたとみなされている。

NGOの代表的機関であるオックスファムが、ルワンダで起きている事件は、虐殺だと言明した。 
米国政府は虐殺という表現を拒否、安全保障委員会にも事件を同様に扱う様に警告する。その結果国連軍は介入の機会を失う。

国連安全保障委員会は、ルワンダに5,500名の国連軍を派遣することに同意、しかし派遣費用に関して合意が得られなかった為、事実上いかなる行動もなされなかった。

米国政府は、はじめてスポークスマンに、ルワンダで起こっている事件を“虐殺”と表現する様に指示する。

ルワンダ軍がRPFとの戦いに敗れる。過激派民兵(ミリシア)も含めて百万人以上のフツ族がザイール(コンゴ)に逃走する。避難民キャンプではコレラが流行し、何千人もの犠牲者が出た。ミリシアの数千人がフランス統治地区に逃亡。他の地域では、その後もツチ族の殺害事件が続行していた。

統一国家による新政府の樹立。民族認識カードの撤廃。

国連安保理がルワンダの事件に関し国際犯罪審判法廷(ICTR)を設置する。

タンザニアのアルーシャに国際刑事法廷が設立。

法廷が開廷され、カイバンダ前大統領を含む44人に判決が下りる。→2005年まで



ビジムング大統領が辞任。副大統領のカガメが大統領に就任する。

伝統的な“ガカカ”法廷の裁判員選出占拠開始。一般ルワンダ人が彼らの比例代表を選ぶもので、1994年の虐殺の責任追及のために行われた。

ポール・カガメが1994年の虐殺以来はじめての大統領選挙で地すべり的勝利を収める。

他民族統合の国会議員選出選挙が開催され、カガメ大統領率いるルワンダ愛国戦線が大多数の議員数を獲得した。

ルワンダ政府が大量の政治犯の釈放を開始する。